家族とレジャー

子ども連れてレジャーを楽しむ価値を考えるお話

先日家族妻と子ども達を連れて東京スカイツリーに行った。コロナ禍かつ出不精な性分であるのでなかなかレアな判断だが理由は以下様々。

・お姉ちゃんぼうやが「おててはスカイツリー!」と保育園で体操している(スカイツリーが何かは知らないらしい)

・賑わっているところでの子どもの反応を見たい(好奇心からどっか行くか否か)

・高いところへの耐性の確認

・引きこもりの妻のガス抜き などなど

結論スカイツリーを見てはしゃいでくれたし、お姉ちゃんぼうやはどっか行かずに手を繋いでてくれたし、高所耐性もあることが確認できた。妻は満足しつつも疲労困憊の様子ではあったが。

あと個人的にジオラマや街づくりのシミュレーションゲームが好きな人は一度は展望台に登ってみると楽しめると思う。関東平野の人工物が見渡せてなかなか感動する。それとエレベーターの速さね、ありゃすげぇ。価格に見合った価値はある。ただし天空回廊からの景色はあまり変わらない、混んでるし展望台で既に満足した後ならまぁって感じ。我ながら露骨に効用が逓減していたことにビビる。

さてそんなレジャー施設だが、子ども達と来るのは1人やデートで来ることと異なる今までにない楽しみが3つある。

まず、子どもへの効用は大人の想像を遥かに超えること。

当然個人差はあるだろうが、我々が楽しむ以上に子どもは非日常を楽しんでくれるようだ。室内で絶叫するのはやめてほしいが。

次に、子ども達が楽しんでいると親も楽しめる。

本当になんでもないキャラクターのアンテナショップを見かけるだけでもテンションダダ上がりの子どもを眺めるだけでも親としては楽しめる。無料でテンション上がるのはありがたい。父はドラちゃんもピカチュウも買わないぞ。

最後に、思い出として振り返る時に価値を得られる。

ここが最も大きい。大人と違って子どものお出かけの記憶にはその時その時の成長が付帯する。この時はまだ喋れなかったとか、抱っこしてお外眺めてたねとかそういうやつである。

これは比較の問題だが、例えばデートの時では当時の付帯状況があまり価値を生まない。大学当時は金がなかったとかデートの作法がわからんかったなぁとか若ぇなぁとかそんなんである。一方で子どもとの思い出は成長記録という要素が入り込んでくるので、思い出している時や他の思い出との時期の差を意識するとそこに価値が出てくる。これは現在との差を成長として喜ばしいものと捉えられる親世代の特権なのかもしれない。

子どもを連れてレジャーに行くことが憚られる昨今にあって、行かない選択をし続けることが将来的な損失かもしれないと思うのであれば、思い切って外出してみるのもいかがだろうか?少なくとも俺は将来の自分の満足のためにも行ってよかった。

まぁしんどいから翌日仕事は休むけどな!

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